執筆者:
丸亀市産業文化部 文化課 課長 村尾 剛志さん
土器川自然公園やレクザムボールパーク丸亀、新市民会館など、丸亀市内の大規模な施設の建造に携わってきた村尾さん。彼の人生から、彼の哲学と丸亀の未来を解き明かす。
孤立した小学生時代、夜間高校での学び、そしてゼネコンからの内定を蹴って市役所に進んだ決断。挫折と偶然が重なった道のりの果てに、村尾剛志は「丸亀のまちづくり」を担う存在となった。華やかな成功物語ではなく、むしろ傷や葛藤の積み重ねが彼を「人と人をつなぐ仕掛け人」に育てた。彼が生まれ育った丸亀のまちは、彼の人生そのものと深く結びついている。

もくじ
幼少期に経験した孤立と再生
村尾さんは幼少期から勉強も運動もそつなくこなす優等生。しかし、彼の人生は決して順風満帆ではない。小学生時代、彼は深刻ないじめに遭い、教室で孤立する日々を過ごした。机に座らせてもらえず、教室の片隅で窓の外を眺めながら授業を受けた。だが彼はその状況をただ嘆くのではなく、「絶対にこいつらには負けない」という強い気持ちを抱き続けた。当時から今にまで続く気持ちの強さ、逆境を乗り越える逞しさがここにある。
転機は5年生の時の担任の存在である。その教師は、当時では珍しく村尾少年を「さん」付けで呼び、「あなたはできる子だから自信を持ちなさい」と励ました。誰かに理解されることが、どれほど大きな支えとなるかを知った瞬間であった。この経験は後の人生において、人を区別せず受け入れる姿勢につながっていく。
定時制高校での学びと誇り
高校受験では挫折を味わった。筆記テストの点数自体は良かったが、内申点が響き、希望校には進めなかった。進んだのは定時制高校。昼間は働き、夜に学ぶ同級生や40歳以上年上の人々と机を並べた。中学時代に親しくしていた友人とも疎遠となったが、その1年は、彼の人生観を大きく変えた。
「点数を取ることがすべてではない」という実感。事情があって進学できなかった者、家計を支えるため働く者、年齢も背景も異なる仲間との出会いから、社会の広さを体感し、「社会を見た」と彼は語る。そこで得たあだ名は「ザビエル」。常に高得点を取る姿から先輩に呼ばれたものである。からかわれたのではなく、むしろ受け入れられた証であった。その呼び名を嬉しく感じたと彼は振り返る。
定時制で過ごした1年間は、人々をフラットに見る感覚を養い、後の市民に寄り添う姿勢の礎となった。
大学で見つけた進路
進学した香川大学農学部では、専攻選択の際、学ぶ内容よりも「主体性を求める」ゼミに心惹かれ、緑地工学の道へ進んだ。教授からは「自分の作った野球場で野球ができるぞ」。そう言われ、勉学にも熱が入った。
この選択が後のキャリアを決定づけることとなる。
市役所という選択の裏側
村尾さんは大学の早い時期にスーパーゼネコンの内定が決まっていた。初任給は当時としては破格の20万円超、同期の多くが憧れる進路であった。
しかし、卒論の調査で訪れた丸亀市役所の対応が心を揺さぶった。
他の自治体から「悪いデータを出したくない」という理由で実験の協力を断られる中、丸亀市だけは「悪いデータとそれの解決案を出してくれ」と実験を快諾した。そんな縁もあり、市役所の採用試験を受けた。「うちは給料も安いし良いことはないぞ」。他の企業が待遇や将来性を並べて勧誘するなかで、唯一誠実に現実を語った当時の課長の率直な姿勢に惹かれたと彼は語る。
自分の町を少しでも良くしたいという想いと、その率直さへの共感が、彼を市役所へと導いた。
市役所での最初の挑戦 ― 土器川生物公園の設計
丸亀市役所に入庁したのは偶然の積み重ねであったが、そこでの最初の仕事は「土器川生物公園」の設計であった。一級河川の中に公園を整備するという全国的にも珍しい試み。現在まで30年近く憩いの場として、自然の多様性を伝える場として市民に寄り添ってきたこの場所は、彼が息を吹き込んだのだ。
「仕事ではなく、完全に趣味だった」と本人は笑うが、この取り組みは丸亀における新しい公共空間のあり方を示した象徴的な事例である。

撮影:くろとり
球場と新市民会館 ― 人を中心に据えたまちづくり
その後も川を埋め立てた「東汐入川けんこう公園」をはじめとした大規模プロジェクトに関わり続けた。
そしてついに球場の建設を任された。緑地工学を学ぶきっかけともなった「自分で球場を造る」。これを叶えたのだ。
建設と同時に球団の誘致も必要となる。彼が目を付けた阪神タイガースを誘致する際には、「二軍の方がずっと長く楽しめる。自分たちがこの球場で見た選手が甲子園で活躍する。また機会があって二軍で帰ってくる。俺が育てたんだっていうような空気を作りたい。」と二軍を誘致したいという熱い想いを語り、球団の心を動かした。そこには、球場を単なる野球施設ではなく、「人と人との関係を育む場をつくる」という彼の哲学を感じる。
新市民会館「シアターマド」建設においても、市民全員に手を差し伸べる、誰も取りこぼさないことをモットーにしている。高校時代に見た「社会の広さ」。これが彼の設計思想に取り込まれているのは言うまでもない。
村尾さんと丸亀市
丸亀市について、彼はこう語る。
”市民の内面の変化を起こす仕掛け、その仕組みを作るのが我々市役所の仕事。仕組みを市役所が作り、その先の仕掛けは市民全員で考える。丸亀市の大きすぎず小さすぎない、その丁度良い大きさだからこそできることがある。この街はすごく面白い。”
彼の原動力は「市民のため」である。自分の名誉や利益のためではなく、市民と共に仕掛けをつくり、市民が誇れるまちを形にすることに情熱を注いできた。ワークショップを通じて市民と議論し、合意形成を進める姿は、公務員という枠を超えて一人の仕掛け人のようである。
人とかかわる、まちは変わる
幼少期の孤立、高校受験の失敗、そこから得た学びと人とのかかわり。それらすべてが彼を「市民とともにまちをつくる人」へと導いた。
丸亀という規模だからこそ可能な、市民と行政が一体となったまちづくり。村尾さんは今日もその中心で、人と人をつなぎ、未来へと続く仕組みを描き続けている。